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@ EILのシンボルと名前のお話
A 創始者ドナルド・ワット博士
B 歴史の中の挿話
C 日本EILの成り立ち
D あの人も体験生
E EILそのものが交流の場



@EILのシンボルと名前のお話

シンボルの表す意味

どこにも切れ目のない、互いにしっかりと結び合った形のこのシンボルは、人類の幸せと恒久平和への祈りをこめて、古くから世界の国々で使われてきました。
最も古いと思われるのは、約5、000年前のインド、イラク、イラン等の遺跡から発見されたもので、その後は紀元4世紀から10世紀にかけて、アイルランド、フランス、スカンジナビアおよび北イタリアで使われ、さらに14世紀には、トルコ人の手で大理石に彫刻されたものも残っています。また、日本でも大戦後の新円切り替えの時、拾円紙幣の裏面に使われたことがあります。

政治、宗教、人種にかかわりなく、世界中のすべての人々が、相互の理解と尊敬と友情のもとに、一人一人の力を結集して、永遠の平和を目指す「国際生活体験」の趣旨を表すシンボルです。


EXPERIMENT(実験)という名の意味

創立者のワット博士が「ホームステイ」という新しい試みを考え付いた頃、言葉や文化がまったく異なる国の、まったく知らない家庭に滞在するということは、まさに「実験」であったのです。開始から年月が経った今でも、これからホームステイを体験する人にとっては、未知の世界で自分を試す「実験」的な体験であることは変わりないでしょう。この実験が、たとえ微力ではあっても、平和促進に役立っていると信じて、EILはこれからもホームステイという実験を続けていきます。




A創始者のドナルド・ワット博士ってどんな人

ドナルド・ワット博士(1893−1977)


ワット博士がEILを創立するまで その1 生い立ち

ワット博士は幼少期から、世界のさまざまな国に行く機会に恵まれていました。ペンシルバニア州ランカスターでデパートを経営する父が、商用でイギリスやフランス、ドイツなどに行く機会を利用し、諸国の風俗習慣に接する機会をもてたのです。アメリカ人の典型であるような開拓精神に満ちた彼は、第一次世界大戦中、YMCAの使節団の一員として、インド、イランで働きました。そこで目の当たりにした、インド、イラン、イギリス軍隊の間に見られる人種的、階級的差別に、ワット博士は強烈な嫌悪の情をいだきました。このことも、EIL創設の一つの契機となっています。大戦後、使節団としての義務も終わり、ペルシャ、インド、中国、日本を経て帰国、その後ペンシルバニア、イェール、ハーバードの各大学で、心理学の研究に専念しました。


ワット博士がEILを創立するまで その2 「ほんとうの相互理解のために」

1921年に亡くなった父親から、ワット博士は50万ドルという遺産を受け取っており、彼は、いかにしてその遺産を社会のために還元できるかということを考えるようになりました。当時生まれたばかりの国際連盟がスポンサーとなってスイスで開催された、国際青少年代表キャンプに、博士はアメリカ代表として参加、しかし、自国へのプライドばかりで互いに肩をいからせる青年達を見て、いたく失望することになりました。また、毎日続く討論会と講演に嫌気がさし、もっと違った方法で国際理解を効果的に深める道はないかと探っていき、たどりついたのが、外国での「家庭生活体験」という試みでした。自己を抑制し、妥協でなく積極的な協調の中でこそ、はじめて相手を理解できるのではないかという考えのもとに。


ワット博士がEILを創立するまで その3 「そして最初の"エクスペリメンター"」

こうして、1930年に12人のアメリカの少年達をヨーロッパに連れて行き、ドイツやフランスの少年達と交流させるプログラムを実施しました。少年たちは、互いに相手国の言語、習慣の理解につとめ、スポーツやハイキングなどの活動をともにすることで、親善の絆を作り上げました。その中で、キャンプよりもホームステイを、しかも3ヵ国ではなく1カ国で体験することのほうが、実りが多いのではないかと考え、翌年はホームステイのグループを送り、大成功を収めました。さらにイギリス、フランス、ドイツでのホームステイにも成功したワット博士は、1932年に正式にThe Experiment in International Livingの名乗りをあげ、世界各国の旧知をたより、また巨額の私財も投じてこの組織の発展に努力しました。



B歴史の中の挿話

ナチス政権下のドイツとも交流。その理由は

1933年、ワット博士は2つのアメリカ人グループをドイツに連れて行きました。当時のドイツで台頭したナチス政権への批判から、アメリカの団体は軒並みドイツへの派遣をボイコットしていました。ですから、ワット博士のグループ派遣は、ナチス政権にドルの援助をするものだとして批判をあびたのです。それに対して博士はこう言っています。「すでに友好関係が築かれている国としか交流しない平和団体に何の意味があるのか?」そして、この一件から次のようなスローガンが生まれました。「誤解が最も大きなところへこそ理解をもたらすために働くべきである(Work for understanding where misunderstanding is greatest)」


友情は戦争を越えて… 後日談

ワット博士によると、「EILグループが滞在した国々の中で、最も歓迎してくれたのは、ナチスという烙印を押された国の人々だった」とのこと。その国、ドイツは、ワット博士がグループを連れて行った数年後には第二次大戦を引き起こし、戦後、ユダヤ人虐殺などのために、世界中から非難をあびることとなりました。
しかし、人と人との友情は、国家間の関係とはまた別のものです。
ふたたび世界との関わりを持ち始めたドイツから、アメリカの体験生あてに書かれた手紙がEILの会報「クロスロード」に掲載されました。

"あなたの1946年5月14日の手紙を読んで、心を強く動かされ、涙が出そうになりました…長い年月が経ち、そして多くのことが起こった後の今なお、あなたは私たちのことをそれほどまで親身に考えてくれている。心の底から、家族の名前と私自身の名前にかけて、お礼を言わせてください。しばしば、私たちは痛みとともに、あなたがたアメリカの熱心な若者達が滞在していたあの楽しかった日々を思い出します。あれは本当にすばらしい日々でした。ともに生活し、ともに語った日々。あのような日がまた来ることがあるのでしょうか?
神がEILにもっと力を与え、もっと多くの家庭をつなぎとめさせていたら。人間性が崩壊することもなく、よって、犯罪的ともいえるような狂信やナチズムが力を得ることもなかったでしょう…"
ドイツ フライブルク ドクター・カール・ロスより


EIL活動の意義

「大地」で知られているノーベル文学賞受賞作家、パール・バック氏がEILについて寄せたコメントをご紹介しましょう。
Whether The Experiment can influence the world in time to save us from the disaster of war is problematic, for war is the ultimate result of total lack of appreciative understanding between peoples and persons. One thing is sure, however, and this is that the more widely The Experiment is practiced the more swift and the more powerful its influence will be. Since every good work depends for its existence and growth upon the number of good people who support it, let us, good people, dedicate ourselves to the building and perfecting of this first essential to peace - an appreciative understanding between the peoples of the earth. Toward this end The Experiment in International Living offers a most practical means.

EILが戦争という惨事から世界を救えるほど影響を及ぼすことができるかどうかは確実ではない。なぜなら、戦争というのは、人々の相互理解の欠如の最終結果だからである。しかし、EILがより広くよりすみやかに活動を広げていけば、その影響力が大きくなることは確かである。どんなよい仕事も、その存在と発展は、それを支持する人々の数にかかっている。善良な人々よ、平和に対して一番不可欠なもの、すなわち、地球上の民族間の正しい相互認識、理解を完成しようではありませんか。この目的に対して、EILは、非常に身近で具体的な手段を提供してくれる。




C日本EILの成り立ち

平和への一歩とはならず… 初めてのグループ来日は奇しくも第二次世界大戦の前年

アメリカから初めてホームステイグループが来日したのは、第二次世界大戦直前の1940年のこと。当時はもちろん「ホームステイ」などという言葉も概念もなく、このことを取り上げた都新聞(現:東京新聞)の記事には「交換息子」という文言が記されています。
記事によれば、「来年度は日本からも派遣する筈で、日米間の国際感情が兎角の問題ある折柄、両国の若人が赤裸の生活感情を交えて起居を共にするこの"集団交換息子と娘"(注:exchange students groupの意)の成果は大いに期待されている」とあります。
現実には、皮肉にも翌年日米開戦となり、"平和"を願った交流の芽が育つのは、終戦を待たなければならなかったわけです。


戦後初のホームステイは "小京都" 金沢で

1955年、日本の東京大学婦人会と日米教育委員会(フルブライト委員会)に関わりのあった真木雪子氏あてにアメリカのEILから日本でのホームステイについて依頼がありました。受入地として白羽の矢が立ったのは、金沢市。真木氏の出身地でもあり、戦後10年しか経っていないこともあり、反米感情が強くなく、占領の影響も大きく受けておらず、文化的土壌も豊かで、またアメリカ文化センターのあった金沢が受入地区となったわけです。翌年、4月の初旬から1ヶ月間、ワット博士夫妻の率いる一行6名が日本で最初のホームステイを金沢で体験しました。


"グランドマザー(おばあちゃん)グループ"
来日したのはワット博士夫妻と、50〜75才の女性達。名づけて「the grandmother's group」。はじめて受入をする金沢のホストファミリーたちは、言葉の違いをはじめ、生活習慣の違いを心配したようですが、実際にホームステイが始まってみると、心配するには及ばず、お互いの違いを越えて、気持ちは強く通じ合うことができました。


金沢駅にグループが緊張とともに到着し、ホストファミリーとご対面。出迎えの方から花束を受け取り、日本式に深々とお辞儀をしようとしたワット博士たちは、ホスト側が、アメリカ式に握手をしようと手を伸ばしているのに気付きました。


体験してこそ見えてくる真の姿

ワット博士がこの日本滞在で実感したこと「ある国について外国人が書いた本の多くは、誤った理解に基づいて書かれていることが多い」。ワット博士が来日前に読んだ本には「日本人はほとんど笑うということがない」とあったのに反して、日本でのホームステイが始まって2,3日もすると、自分達が知っているどの国の人よりも、日本人はよく笑うことを知りました。博士はこう書いています。「日本人は公共の場では感情を表に出すことは望ましくないとされているのだろう。日本についての本を書いた権威は、きっと日本人の家庭生活を体験したことがなかったのだ。この話の教訓はこうである:もし外国の本当の姿を知りたければ、本を読むのではなく、実際に行ってその地の人々と生活してみることだ」



EIL内部での異文化摩擦。そこから日本EILが正式に誕生
金沢で始まったEIL運動は、長野、甲府などの市長から趣旨に賛同を受け、徐々に活動の規模が大きくなっていきました。1961年には、当時の石川県知事であった田谷充実氏を委員長とし、金沢市長、長野市長、甲府市長以下8氏を委員として、国際生活体験日本委員会が発足しました。ところが、アメリカの国際事務総長は、この役員リストを見て、日本のEILを警戒の目で見るようになりました。アメリカでは、もともと"民"の力が強く、"官"が関わらずとも、一般の人々に認められることができる土壌があります。が、日本では、(現在でもなお)民間単独の力ではなかなか認知もされないのが実状です。アメリカ事務局では、組織に官の力が大きく関わることに不満を表し、事務総長の特使を日本に送って民間移行を促しました。さらに、EILアジア連絡員という名目で、スタッフを日本に送り、実質的に新たな民間EILを作ろうとしました。
日本EILの関係者にとって、この事態はあまりにも日本の国情を理解していないものと映り、ア
メリカへ役員を派遣し、局面の打開にあたりました。当時の国際事務総長は、日本の国内事情に対する不認識を認め、役職は何であろうと、本団体に賛同し、協力する人には何の意義もはさむものではなく、石川県知事中西氏(当時)の援助のもと、国際的に認められる組織作りを希望するという決着となりました。

各国の事情を尊重しあって交流をするという趣旨を改めて確認させられた出来事。それが日本EILの正式な発足につながったのです。異文化理解をうたう団体であるEILも、こうして試行錯誤を繰り返して現在に至っているのです。


岡本太郎氏も講演!ワット博士は受勲!日本での国際会議
1972年9月25日から10月7日まで、東京と宝塚市で、第21回国際総会および40周年記念式典が開催され、加盟63ヶ国から、262人の代表が参加しました。

講演「日本を知る」
  岡本太郎氏   「日本の美術」
  国弘正雄氏   「日本と日本人」
  三谷陽子氏   「日本の伝統音楽」
  山下信一氏   「日本の言葉と生活の紹介」


この折、EIL創始者であるワット博士と、当時の国際事務総長であったゴードン・ボイス氏が、日本国政府より勲三等瑞宝章を受けました。



Dあの人もEIL体験生

1「あの夏が今の私の出発点」
ジョン・W・ダワー氏   マサチューセッツ工科大学教授
 
「敗北を抱きしめて」で2000年第84回ピュリッツァー賞(ノンフィクション部門)を受賞

1958年、金沢で受入が始まって3年目の夏、アメリカの大学生グループのメンバーとしてダワー氏は来日、ホームステイを体験しました。同じグループの他のメンバーを受け入れたファミリーのお嬢さんが後の奥さんとなりました。
日本の戦後史の研究者であるダワー氏が、日本と出会ったのがこのホームステイでした。回想録で、ダワー氏はこのように語っています。「私の日本についての"追憶"はもう何層にも重なり合い、多岐に亘っているが、重要さから云えば、あの初めての夏が今でも出発点である」。

「おそらく、EILの最も偉大な美点は、若い人たちが社会学や政治学を真剣に学ぶ前に、(勉強や研究としてでなく、体験をすることで)彼らの心をしっかりとつかむことにある。その結果、彼らはさまざまな概念やカテゴリーとして認識する前に、人を見ることになる。」

今注目されている「体験学習」が、EILのプログラムの中にはしっかりと生きています。


2 「ハリー・ポッター」日本登場のきっかけ
ダン・シュレシンジャー氏  
1955年N.Y.生まれ。イエール大学、オックスフォード大学、ハーバード大学院で法律を学び、弁護士として活躍。友人の依頼で描いた絵がきっかけで弁護士から画家へと転身。

1971年、シュレシンジャー氏は高校生グループのメンバーとして来日、京都で1ヶ月間ホームステイを体験しました。のちにその経験もいかして日本でも弁護士として活躍されました。

「ハリー」シリーズの日本語版の翻訳をされている松岡佑子さんとシュレシンジャー氏は、飛行機の中で隣り合わせたのがきっかけで知り合い、以来20年以上の親交があるそうです。松岡さんに「ハリー」の日本語訳を手がけるよう勧めたのがシュレシンジャーさん。作品の表紙の絵も手がけました。
2000年、挿絵画家として京都丸善でのサイン会のために来日、30年ぶりに当時のホストファミリーやボランティアの学生さんたちと旧交を深めたそうです。




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