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| 国際組織としてのEILの成り立ちについてはこちら 平和への一歩とはならず… 初めてのグループ来日は奇しくも第二次世界大戦の前年 アメリカから初めてホームステイグループが来日したのは、第二次世界大戦直前の1940年のこと。当時はもちろん「ホームステイ」などという言葉も概念もなく、このことを取り上げた都新聞(現:東京新聞)の記事には「交換息子」という文言が記されています。 記事によれば、「来年度は日本からも派遣する筈で、日米間の国際感情が兎角の問題ある折柄、両国の若人が赤裸の生活感情を交えて起居を共にするこの"集団交換息子と娘"(注:exchange students groupの意)の成果は大いに期待されている」とあります。 現実には、皮肉にも翌年日米開戦となり、"平和"を願った交流の芽が育つのは、終戦を待たなければならなかったわけです。 戦後初のホームステイは "小京都" 金沢で 1955年、日本の東京大学婦人会と日米教育委員会(フルブライト委員会)に関わりのあった真木雪子氏あてにアメリカのEILから日本でのホームステイについて依頼がありました。受入地として白羽の矢が立ったのは、金沢市。真木氏の出身地でもあり、戦後10年しか経っていないこともあり、反米感情が強くなく、占領の影響も大きく受けておらず、文化的土壌も豊かで、またアメリカ文化センターのあった金沢が受入地区となったわけです。翌年、4月の初旬から1ヶ月間、ワット博士夫妻の率いる一行6名が日本で最初のホームステイを金沢で体験しました。 "グランドマザー(おばあちゃん)グループ" 来日したのはワット博士夫妻と、50〜75才の女性達。名づけて「the grandmother's group」。はじめて受入をする金沢のホストファミリーたちは、言葉の違いをはじめ、生活習慣の違いを心配したようですが、実際にホームステイが始まってみると、心配するには及ばず、お互いの違いを越えて、気持ちは強く通じ合うことができました。 金沢駅にグループが緊張とともに到着し、ホストファミリーとご対面。出迎えの方から花束を受け取り、日本式に深々とお辞儀をしようとしたワット博士たちは、ホスト側が、アメリカ式に握手をしようと手を伸ばしているのに気付きました。 体験してこそ見えてくる真の姿 ワット博士がこの日本滞在で実感したこと「ある国について外国人が書いた本の多くは、誤った理解に基づいて書かれていることが多い」。ワット博士が来日前に読んだ本には「日本人はほとんど笑うということがない」とあったのに反して、日本でのホームステイが始まって2,3日もすると、自分達が知っているどの国の人よりも、日本人はよく笑うことを知りました。博士はこう書いています。「日本人は公共の場では感情を表に出すことは望ましくないとされているのだろう。日本についての本を書いた権威は、きっと日本人の家庭生活を体験したことがなかったのだ。この話の教訓はこうである:もし外国の本当の姿を知りたければ、本を読むのではなく、実際に行ってその地の人々と生活してみることだ」 EIL内部での異文化摩擦。そこから日本EILが正式に誕生 金沢で始まったEIL運動は、長野、甲府などの市長から趣旨に賛同を受け、徐々に活動の規模が大きくなっていきました。1961年には、当時の石川県知事であった田谷充実氏を委員長とし、金沢市長、長野市長、甲府市長以下8氏を委員として、国際生活体験日本委員会が発足しました。ところが、アメリカの国際事務総長は、この役員リストを見て、日本のEILを警戒の目で見るようになりました。アメリカでは、もともと"民"の力が強く、"官"が関わらずとも、一般の人々に認められることができる土壌があります。が、日本では、(現在でもなお)民間単独の力ではなかなか認知もされないのが実状です。アメリカ事務局では、組織に官の力が大きく関わることに不満を表し、事務総長の特使を日本に送って民間移行を促しました。さらに、EILアジア連絡員という名目で、スタッフを日本に送り、実質的に新たな民間EILを作ろうとしました。 日本EILの関係者にとって、この事態はあまりにも日本の国情を理解していないものと映り、ア メリカへ役員を派遣し、局面の打開にあたりました。当時の国際事務総長は、日本の国内事情に対する不認識を認め、役職は何であろうと、本団体に賛同し、協力する人には何の意義もはさむものではなく、石川県知事中西氏(当時)の援助のもと、国際的に認められる組織作りを希望するという決着となりました。 各国の事情を尊重しあって交流をするという趣旨を改めて確認させられた出来事。それが日本EILの正式な発足につながったのです。異文化理解をうたう団体であるEILも、こうして試行錯誤を繰り返して現在に至っているのです。 |
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